勢いで強めタイトルを書いてしまったのですが、『ぼくのメジャースプーン』を再読したよ、というだけの話です。
だけの話ですが、個人的にビッグイベントだったので記録しておきます。
『ぼくのメジャースプーン』『名前探しの放課後』のネタバレを含みますので、両作品を未読の方はご注意ください
「ぼくメジャ」読んだ!
私と「ぼくメジャ」の因縁
突然ですが、私の人生最愛小説は辻村深月先生の『名前探しの放課後』です。
何十周もしていますが全く飽きないし、むしろ年々愛が深まるばかり。
そしてそんな『名前探しの放課後』と密接に関わるのが、『ぼくのメジャースプーン』、通称「ぼくメジャ」。
こいつが(自分にとっては)厄介者でして…
一般的には、『名前探しの放課後』の前に「ぼくメジャ」を読むべき、とされています。
ですが、「ぼくメジャ」は『名前探しの放課後』とは全く趣の異なる作品。
端的に言うと、私、「ぼくメジャ」が全く好きではなくて。
まず残酷描写がえぐくて無理だし、それを抜いても全体的に暗いし全然良さが分からなくて。
それなのにこの2つがセット扱いされていることで、愛する『名前探しの放課後』布教の妨げになっていると常々思っていました。
絶対「ぼくメジャ」でつまずいた人いるって…!っていうくやしさ
私がこのブログを始めたきっかけとして、どうしても布教したいことが3つほどありまして、その中でも一番大きかったのが、この「ぼくメジャ」反布教だったのです。
というわけで、このブログでは、たびたび「ぼくメジャ読まなくても名前探しの放課後楽しいよ!」と伝えてきました。
これで当初の目的を果たすことができてすっきり。
…のはずだったのですが。
「ぼくメジャ」のこと何も知らないのにこんなん言ってていいのか
言い訳がましいですが、自分としてはけしてぼくメジャを悪く書くつもりはなく、合わない人もいるだろうから、無理に読まなくてもいいんだよ、というだけのことを伝えたつもりでした。
ですが、自分の中で「本当にそんなことを言ってよかったのか…」という気持ちがだんだん大きくなってきて…
というのも、ぶっちゃけぼくメジャ一回しか読んでないし、趣味に合わないので超高速で読んだので、いまいち話覚えてなかったんです…!
ほんとすみません
ろくに覚えてない話をどうこう言うのもどうなんだ、という気持ちが大きくなり、一念発起して10年ぶりに再読しました、ぼくメジャ。
読んだら意外と悪くなかった
結論から言うと、もう一度読んでよかったです。
私が再読前に覚えていたのは、「ぼく」の能力(なるほどそれで『名前探しの放課後』のアレね)とえぐすぎる残酷描写(無理無理無理)、そして「ふみちゃんのこと好きじゃない」(えええ??)だけ。
ひどい。
そして再読した結果…!
意外と悪くないぞ???
初見のときは、もう序盤の残酷描写が無理すぎて、とにかく早く読み終わろうとして全然話味わってなかったなと。
理解が浅かったことを素直に反省しました。
初見時の反省
まず、初見のときは読んだ順番が悪くて。
下調べをしない雑な読者だったので、先に『名前探しの放課後』を読んで最高すぎて大興奮してネットで感想あさったところ、どうも『ぼくのメジャースプーン』を先に読むべきだったようだぞ…?と知り。
「名前探し」ラストの秀人の独白は、なんかよくわかんないアレだと思ってスルーしてました(笑)
やや落胆したものの、また『名前探しの放課後』のような感動を得られるのか…!と超期待して臨んだ「ぼくメジャ」があれ。
『名前探しの放課後』とは雰囲気が違いすぎるし何よりえぐい…
ということで「ぼくメジャ無理」になった後で、何十周も『名前探しの放課後』だけをループしていたんですね(大好きだから)。
すると初見のときには気にならなかった、「ぼくメジャ」の匂わせ、未読の人にはわからないファンサが気になって仕方ない。
こちらの記事でぶちまけている通り、ふつふつと「ぼくメジャ」への憎しみを募らせていたのですが…
この邪魔でしかないと思っていた匂わせ、意味がありましたね…
『名前探しの放課後』のミスリードとして思ったより機能してた
匂わせのあまりの露骨っぷりに辟易していたのですが、これ刊行順(もしくはすごろく順)で読んだ人だけかかるミスリードがありますね。
友春のところです。
「トモ」ハル、天木タカシ、丁寧に秀人からの呼び名が変わっていることまで触れて、辻村ワールドの登場人物たちが相互に関わりあっていることを知っている読者は、当然「あ、これぼくメジャメンバーじゃん」と気づきます。
「ぼくメジャ」のトモと言えば、やっとのことで登校してきたふみちゃんのモノマネをして、「ぼく」と殴り合いの喧嘩の末、「ぼく」の能力により「この先ふみちゃんと口を利かないことを選んだ」悪ガキ。
ほかに大した出番もなく、印象は割と最悪なキャラです。
「ぼくメジャ」から来た読者は、『名前探しの放課後』で友春がいじめをしていると知り、「またあいつか…」となるわけです。
なんの疑いもなく。
『名前探しの放課後』でキーとなるのは、友春のいじめが狂言であること。
友春がいじめをしているのかどうかに簡単に疑いをもたれては台無しですから、先入観のあるキャラを使うのは素直に上手いな、と思いました。
匂わせ、意味あったわ…
とはいえ、やっぱり過剰だとは思うんですが…(しつこい)
「ふみちゃんのこと好きじゃない」の真相
個人的に意外だったのは、クライマックスの「ふみちゃんのこと好きじゃない」のところ。
生粋のラブコメ脳なので、初見時はここまできて突然「ふみちゃん好きじゃない」が来て「へ????」となり、理解不能…という記憶しか残っていませんでした。
え、だって高校生のときは付き合ってるじゃん??え??っていう。
再読してびっくりしたのが、「それでもそれを愛と呼ぶ」というフォローがすぐ後に入っていること!
いったい自分は何を読んでいたんだ…?
完全に斜め読みですっ飛ばしていたようで、衝撃的な「好きじゃない」だけが頭に残ってしまったと思われます。
それもあり、「よく分からない後味の悪い話」という印象が強かったのです。
この発言に関してはずっともやもやしていたので、ちゃんとフォローされていて一安心。
なんとなく、ぼくメジャが何をしたかったのかが分かりました。
ちなみにこの展開は…悔しいですが、割と好き(笑)
やっぱり好きにはなれなかった
ここまで書いてあっさり宗旨替えした感じになってますが、やっぱり「ぼくメジャ」は好きにはなれません。
だって序盤えぐすぎるんだもの。
ラストは比較的好みではあるものの、やっぱり全体として暗いし、私の趣味ではないかな。
not for meというやつでした。
ですが、「ぼくメジャ」を推す人の気持ちはやっと理解できました。
10年越しにようやく。
良い作品ですね。
「名前探しの放課後」から「ぼくメジャ」に戻るのはやっぱりおすすめしない…
「ぼくメジャ」自体の良さ、そして『名前探しの放課後』のミスリードとして機能していることは分かったので、世の人がこぞって『名前探しの放課後』の前に「ぼくメジャ」を!と言う気持ちは分かりました。
それはまぁ、確かに。
事前に下調べをするマメさがあり、残酷描写平気で、ちゃんとこの順番で読める人は、それがいいと思います。
でもやっぱり、グロ無理な人に「ぼくメジャ」読んでほしいとは全く思わないし、それで『名前探しの放課後』がより面白くなるとも思えないし、ていうか「ぼくメジャ」で挫折して『名前探しの放課後』に進めないのは絶対嫌なので…
やっぱり、これからも私は『名前探しの放課後』、「ぼくメジャ」読まなくてもいけるよ!!!と伝えていきたいと思っています。
もちろん、順番通り読みたい人はそれが一番良いです!
「ぼくメジャ」必読ではないけど順番は間違えないで
そして、もし「ぼくメジャ」を読むなら、必ず『名前探しの放課後』の前に。
今回再読して、改めて初見時は時系列に逆行して読んだのが悪かったな、と感じました。
「ぼくメジャ」→『名前探しの放課後』の順で読んでいれば、『名前探しの放課後』で「ぼく」と「ふみちゃん」はちゃんと普通の高校生になっていて、付き合っていて幸せそうで、他人を助けるやさしさと心の余裕がある、と、「良かったねぇ~~~涙」となるんです。
流れとして良い。
これが、私のように時系列に逆行して読んでしまうと、「ぼくメジャ」で「秀人」と「椿ちゃん」にこんな辛い過去があった、なんで、可哀想、犯人許せない…と負の感情しかわかなくて、あのあっさりラストじゃ払拭できないんですよ。
なので、先に『名前探しの放課後』を読んでしまった人には、グロ耐性関係なく「ぼくメジャ」はおすすめできないなぁーと、改めて思いました。
というわけで、私の今後の使命としては、「ぼくメジャ」読まなくても大丈夫!だけではなく、『名前探しの放課後』の前に読まないといけないかもしれない作品として「ぼくメジャ」があるよ、ということまで伝えていかねばな、と。
これからも布教がんばります
おわりに
最後まで読んでくださり、ありがとうございます!
もう二度と読まないだろうなと思っていた作品を再読して、視界が開けたというか、ちょっとびっくりな体験だったので記事にしました。
一回苦手だった作品・作家さんとかもたまには再読してみようかなーーと思いつつ、常に積読に追われているのでなかなか難しそう(笑)